第2話 怒り

このコラムは私と若年性認知症を患った母の10年をつづります。

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第1話 いちばん縁遠い人のはずだった




10年前に結婚して家を出ましたが
結婚当初、
夫が泊りの仕事の時は実家で泊まることもあった、そんな頃。



実家にいるときに
お昼ごろに登録のない電話番号から携帯に電話がかかってきました。 



電話にでると聞き馴染みのある声。

私の幼稚園の同級生のママであり
母が一緒に仕事をしている間柄の方でした。


「なつみちゃん、久しぶり! 
今日はね、お母さんのことで電話したの。」


その後、彼女が話したことは母の物忘れがひどいことでした。

・話したことを忘れてしまう
・何度も確認の連絡がくること

主にこの2点でした。

その時は母は彼女と一緒に仕事をしていました。 


結婚してずっと専業主婦で
一度も働いたことのない母が仕事をすることは
やりがいはあるようでしたが、とても大変そうでした。

きっと母の友人は真面目に取り組むものの
収益を求めず、趣味感覚で仕事をする母と
一緒に仕事をするにはやりにくいところもあったと思います。




ですが、
毎晩のように「もう忘れよう。忘れよう。」

そう呟く母を私は見ていました。


父のことや義理家族のことはもちろん、 
友人関係に至るまで愚痴を母から聞いたことのなかった私は 

母が相当にしんどい状況にあることを何となく感じていました。

ですから、電話をもらった時

『仕事でのストレスからだ』
そんな考えが沸き上がりました。


彼女の連絡は少なからずショックを感じましたが 

もちろん家族内でも母の物忘れは気になっていましたから
大きなショックではありませんでした。



その頃はいつもポストイットに  
「牛乳・卵・ハム・ティッシュ 郵便局へいく」
なんて、必要事項を書いて母が必ず目を向ける場所に貼っていました。



でも、単なる年相応の物忘れで
それに加えて仕事でのストレスからきてるんだわ。
だって、脳神経外科に勤める看護師の私が気付かないわけない。


看護師であるという自信 
その時の母の状況 
50歳という年齢 

様々な要因から 

《ただの物忘れ》と判断してしまいました。


「お電話くださってありがとうございます。  
私も気になっているのですが、  
ストレスや年齢によるものかと…」 

と返答した覚えがあります。


そして、次に湧いてきた気持ちは  

なんと《怒り》でした。


今思えば、
もちろん彼女は言いたくて私に母の違和感を話したのではなく
きっと悩んで悩んで娘の私に 
電話してくださったと思います。

でも、私は  
「母のことを認知症のように言うだなんて。」
と思ってしまったんです。


でもね、実はこれは当たり前の感情なのです。

患者さんが病気を診断された時などに生じる感情の変化は
色々な場面に合わせてある程度、研究がされています。 
(もちろん人によって気持ちは異なりますので、 
これが全てではありません。)


認知症の受容過程は明らかになってはいませんが、
多くの方に見られるのがまずは驚愕・ショック。

認知症と言われたことに 
ショックを受けます。

その後、否認や怒りという感情が湧いてきます。


「私が認知症のはずはない。」
「母が認知症のはずはない。」
「医者が、病院の検査が悪いんだ!」


誰だって否定したいですよね。
至極当然の感情です。


ただ、ここをどう乗り越えるかが 
【認知症の早期治療の開始】と深く関わると私は思います。

“当事者と家族が”どう乗り越えるかです。




数ヶ月後、私は母に認知症の兆しがあることに気づき 
病院受診へ母を誘導させるべく 
色々な手段を考え始めます。

来月は、《認知症と物忘れの決定的な違い》を 
お伝えしますね^^



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《プロフィール》
竹内なつみ

神奈川県横浜市で育ち 
3歳上の頭の切れる姉と喧嘩することなく、
ぬくぬくと甘えさせられて育つ。
母が40代前半で生死をさまよう手術をした経験から、
表情や顔色、会話の雰囲気などの変化に気付けるようになり、
身近な人を守りたいと看護師を目指す。
日本赤十字看護大学にて看護師・保健師の資格を取得後、
脳神経外科専門病院にて勤務。
急性期病棟にて経験を積む。
その後、看護を学ぶため、大学院修士課程へ進学。
病院入院中の患者を観察やインタビューなどから、
患者について深く学ぶ。
観察力、分析力、文章力を評価され、博士課程へ進む。
博士課程在学中、ワンオペ育児、介護で忙殺され、途中退学する。
現在は、とにかく明るい性教育「パンツの教室」インストラクターとして活動中。
活動開始より半年で70名、1年で130名以上の方へ伝えている。